まだ名もないキモチ

文学部の大学生が書いていくブログです。興味あることや大学での勉強のこと、将来に向けて等内容は様々です。神戸大学生に向けての記事も書く予定です。

読書語り#10 『将来の夢なんか今叶えろ。』

「出る杭は打たれる」という言葉があります。

現在の教育現場は控えめに言って、この言葉のもとで動いている気がします。

この本を読んで、今の教育現場に真剣に向き合っていこうと思いました。

 

そもそも僕が教師になりたい理由というのがこの「出る杭は打たれる」方式の教育を変えたいと思ったからなんです。学校という場は社会に通用する力を身に着ける場となっています。しかしながら裏を返せば、社会に出た時に上の人間が使いやすい人間を作っているともいえますよね。

あの新卒社会人を一斉に雇用する体制は、以前から疑問に思っています。新卒にそんなに価値があるのか?能力がある人が欲しいんじゃないの?と思っています。

ちなみにアルバイトの募集に関しても全く同じことを思っています。アルバイトって基本的に誰でもいいんだと思います。物覚えがよくて、言うことを聞いてくれる人、こんな人が重宝されてる気がします。むしろ効率のいい方法とかを勝手に考えて、勝手に動かれるほうが迷惑なんだと思います。

特に塾講師のバイトとかね。前に採用テスト受けた時に、採用テストのファイルに入ってたマニュアル。とんでもない量の指示が書かれていました。これって要するに、自社のブランドに従ってくれる人を探してるってことの裏返しなんですよね。

 

という感じで、話が脱線しましたが、日本の教育って基本的に学ぶことに関する考え方が甘い気がします。僕は「学ぶことは楽しいことだ」をモットーに勉強を続けています。「学ぶ」「勉強する」という行為自体にもっと価値が付与されるべきだと思います。勉強って基本的に手段として扱われるんですよね。要するに受験合格という感じの目的に対しての手段として。だから「どうしてこんなものを勉強するのか」という考え方に至ってしまう。

 

そこで僕は教育現場を変えてみたいんです。これまでの手段としての勉強ではなく、それ自体が価値を持つものとして勉強というものを教えてみたい。それにはまず、なぜ学ぶのかを説明できないといけないなって思います。勉強を手段として使うなら学校は堀江さん(この本の作者)の言う通り、別に要らないんです。ただ、学ぶことの大切さがいまいちピンと来てない人や将来のやりたいことをどうやって叶えたらいいのかが見えにくいって人が学校に来る意味がある、学校を作りたいなって思います。

 

ブラック校則とか理不尽な指導体制とか、そういったものをなくしていきながら、学ぶ意味を見出していく。そんな教室をいずれ作りたいと思ってます。

あんまり本の内容に触れられませんでしたが、今日考えたことをここに書いておきます。明日からも頑張らなきゃって思いました。

 

それでは、また明日!!

特撮語り#3 リバイス25話 ドンブラザーズ1話

まずはリバイスから。

「よみがえる!ベイル!?五十嵐家の記憶」ということで、驚きと新情報の連続でしたね。

 

まずは今回発覚した内容を整理すると

・18年前の火事の原因はおそらくベイル (ただし五十嵐元太は体を乗っ取られている状態のよう。悪魔は人間の体を借りないと仮面ライダーに変身することができない)

バイスは18年前の火事の日に一輝と一度契約を交わしている(この状況を何とかする代わりに記憶を封印)

・五十嵐兄弟はギフの末裔 (悪魔を生み出しているのも、仮面ライダーに変身できるのもそれが原因)

・ぶーさん、何か知ってるはず (一輝に質問されたことに、答えることはできないと返事を返した。牛島家もそうだったように、ぶーさんも必ず何か秘密を抱えている)

・五十嵐元太がベイルに体を乗っ取られたのは、一命を取り留めるためにギフの細胞の一部を移植したから (その元太の子供である五十嵐3兄妹はギフの末裔ということになる)

 

こんな感じでした。五十嵐元太役やってる戸次さんって制作発表の時、仮面ライダーに変身したいって言ってたので、夢かないましたね。おめでとうございます。

 

今回のリバイスはかなり今後にかかわる重要な回だったような気がします。

来週は大二とカゲロウ一騎打ち、ホーリーライブ誕生回ですね。

個人的にホーリーライブの見た目がめちゃくちゃ好みで楽しみです。

 

 

そしてついに始まった暴太郎戦隊ドンブラザーズ。

第一話は「あばたろう」。

アバターがモチーフっぽい感じで、あのサングラスをかけると電脳空間みたいなところに飛ぶのがすごく印象的でした。(ちなみにあのサングラス24000円くらいで発売するそうですよ、高!!)

 

個人的には猿山さんが推しなので、今回は出てこなくて残念。なぜか次回予告で涙を流してましたが、風流人だからかな?って感じ。

 

謎の五色田介人はギアを集めてるっぽいですよね。まずは一つって言ってましたし。

 

あと今回の戦隊は五人がそろって戦いに向かうというより、戦闘が始まると強制的に戦場に送られる仕様っぽいですよね。メンバーからしたらめちゃくちゃ大変な仕様かも。

 

来週も楽しみです。

それでは、また明日!!

読書語り#9 『教師の本分』

「生徒と我が子の入学式、どっちが大事か?」というサブタイトルのついたこの本。

尾木直樹さんが書いた本なのですが、ブログ炎上の件から「教育の商品化」や「教師の存在」についてアプローチした本となっております。

 

「教育の商品化」ということでモンスターペアレントについて挙げられていました。モンスターペアレントに関する話は教育の授業でやったのですが、必ずしもモンスターペアレントとよばれる親御さんが悪いという話ではないんですよね。「○○してほしい」という願望を持っている親御さんがある種の救いの手として学校にお願いをする。ここは問題ないのですが、この提案が異常なほど過剰になったものが問題視されているわけです。

 

本来は家で教えるべきものを教師にすべて任せる。わが子を思うがゆえに教師に無茶な提案を持ちかける。こういった行為がモンスターペアレントという言葉が作られるほどに以前台頭していたわけです。主な原因としては多忙化により親が子供に向き合うことが以前より少なくなっていることが挙げられるそうです。すべて教師に丸投げされても困りますという感じですが、軽くあしらうように対応すればクレームが来て面倒な事態になりかねないというジレンマが問題なのだろうと思いますね。

 

この本では学校の教師がどうあるべきかという話が述べられていました。

塾産業が拡大するにつれ、教師と塾講師の差異が今一度吟味される必要がありそうです。教師というのは学校の先生のことで、塾講師を教師とよぶことは少ないですよね。つまり教師にしかできない仕事があるはずなんです。それを我々は無意識に理解しているようです。

 

教師とは人格を育てる人のことなんです。そこが塾講師との決定的な違いです。

極端な話、塾講師は大学に受からせることが目標です。人格形成なんてお金儲けにならないですから、あくまでも努力すべきというだけで義務というわけではないです。

それに対して学校という場は、将来生徒たちが社会で多様な人とうまく働いていけるように、社会の理想とする価値観とは何か、どうすれば社会で生きていけるのか、そういったことを学校という狭い共同体内で学ぶ場なんですよ。

受験指導だけが学校の先生の仕事ではないって思います。受験合格は自分の進みたい道に生徒が進めるための準備の段階です。その先で生徒たちが活躍できるように、うまく生きていけるように、誰かを助けられる人になるように、いろんな考え方を教えていくのが教師のあるべき姿だと思います。

 

そんな教師になれるようにこれからも日々、勉強し続けます。

 

それでは、また明日!!

読書語り#8 『高校の現実 生徒指導の現場から』

今日は2冊続いて高校に関する本を読みました。

この本は学校が抱えている問題と言いますか、悩みと言いますか、そういったものを高校の生徒指導をしている先生が書いたものです。

つまりめちゃくちゃ簡単にこの本のテーマを説明すると、学校という場が社会とどのようにかかわっているのかをリアルに語った本ってことです。

 

特に印象的だった、「生徒に合わせねばならない教育」と「いじめをどう解決するか、ゼロ・トレランスとの兼ね合い」についてお話しします。

 

 まず「生徒に合わせねばならない教育」に関してです。これは生徒のレベルに合わせてきちんと授業をしましょうねみたいなそんな優しい話ではないんです。学校の先生の目的って授業をすることなんですよ。何を当たり前なことをと思うかもしれませんが、よく考えてみてください。「授業」って何でしょう?生徒がちゃんと先生の話を聞いて学習することなんです。つまり「生徒が聞いてくれる」っていう条件がそこに入るんですよね。先生が黒板の前で話すことが授業ではなく、その話が聞き手に届いて初めて授業たりうるんです。つまり先生は生徒が話をちゃんと聞いてくれる環境を作らなきゃいけない。だから「生徒に合わせねばならない教育」なんですよね。ただこの本のすごいところ肌から教師って無力なんですよって言わないんです。

 この本に載っていた例です。女子高生の制服のブレザーが盗まれました。学校中を懸命に探し回りましたが見つかりません。女子生徒の親は、ブレザーは盗まれたのだから校則でブレザーの着用義務があろうとも、娘はブレザーを着なければならないということにはならない、と主張しました。そこで学校の先生はこう言ったんです。「ならば学校ではなく、警察に盗難届を出してください。学校は懸命に探しました。警察の動きを加味して、もう一度改めて娘さんにブレザーの着用に関してお願いします」と。

 これは外部の力を利用しているんです。確かに学校の中では学校の先生は生徒にある程度合わせないといけません。そうしなければ更なる問題が引き起こされ、事態は悪化するだけです。しかし社会のルールを用いれば、社会的な判断がそこでの政界になるので、結果として教師は生徒やその親に無理に合わせる必要がなくなります。案外学校の問題は外とのつながりも重要なのだと気づかされましたね。

 

そして「いじめをどう解決するか、ゼロ・トレランスとの兼ね合い」っていうテーマです。ゼロ・トレランスは「無寛容」的な意味で、要するに寛容さなしで、ルールを基に判断するという意味です。よくいじめが学校で起きた際に、学校の対応が悪いということをいう人がいます。しかしながらいじめの対応はめちゃくちゃ難しいそうです。

これには2つの理由があります。一つ目に「被害者は絶対に正しいという考えが社会にある」ということです。基本的にやられた側、つまり被害者はとがめられることがないです。それに対して加害者が悪いのではないかという意見が大半でしょう。しかしそういった前提で解決に導くと、加害者側に関係する人、例えば加害者の親が出てきたりすることで事態はさらに面倒なことになります。いじめなどで被害者と加害者がどういう関係にあるのかが判然としないほど、事態の収束は困難です。

そして二つ目に「いじめの証言集めが難しい」ということです。いじめに関して第三者の視点から情報を集めるとき、意外とうまくまとまらないそうです。なぜならいじめというのは被害者と加害者の関係が色々と入れ替わり、様々な要因が集まって今の状態になっているからです。互いに言い分があり、いじめられただの、これはいじめに入らないだの様々な考えが飛び交うのでそれを一つのストーリーにするのが難しい。

 

そしてよく寛容さゼロ(ゼロ・トレランス)で加害者を罰すればいいだけだと言われるが、加害者にも加害者の言い分があるため、そういう対応はかえって事態を泥沼化させることもあるのだそうです。いじめの解決は難しいですね。何冊も本を読みましたが、以前よりもさらに複雑化しているので難しいところです。

 

高校のリアルな問題を知ることができて勉強になりました。人と人がかかわりあって、人として成長していく場である学校での問題についてはまだまだ勉強しておこうと思います。

 

それでは、また明日!!

読書語り#7 『国語教育の危機』

これは割と最近出た本なんですよね。共通テストのプレテストが本の中で触れられています。ちなみに一応記述を導入しますってことで話が進んでた頃なので、その辺に関しても一応触れられています。

 

この本を読んだうえでお話ししたいのは、今後の国語教育の在り方ですよね。

実は国語の科目名がだいぶ変わるんです。

<今>

国語総合、国語表現、現代文A、現代文B、古典A、古典B

<新しい国語科>

現代の国語、言語文化、論理国語、文学国語、国語表現、古典探求

 

なんだかAとかBとか言ってた時よりもだいぶわかりやすくなってます。ちなみに総単位数で言うと少しだけ増えてるので今後は国語の授業が少し増えるかもしれません。

 

特に注目すべきは現代文を論理国語と文学国語に分けたところでしょうね。これまでは評論も文学作品もごちゃ混ぜにしてカリキュラムを組んでたので、論理的な読解力が鍛えられてないとかいう問題が出てきてしまってたんですよね。そこで論理的な文章を読み解く論理国語と現代に受け継がれている文学作品に関する授業である文学国語に分けることで、かなりメリハリはつくんじゃないかなって個人的には考えています。

 

ただこの改革で唯一いまいちなのはやっぱり入試問題との兼ね合いですよね。共通テストは分量が増えた割に問題はいまいちだったりするんですよね。複数の文章を使うと言いつつも実際は片方の文章で読み解ける問題がほとんどだったり、複数の文章を解答要素に使うがゆえに選択肢が簡単すぎたり、逆にどっちつかずの二択が生まれたり。そして結局は入試対策の面で見たら、評論も文学も古典にも今と同じくらいの労力がかかってしまうんですよね。ということは将来を考えた論理的思考力を鍛える場がいまいち確立しないのが少し問題でしょうかね。

 

とにかく国語という教科は生徒がより学びやすく、かつ学ぶ意味のあるものに進化しつつあるのはよくわかりますし、僕はこの流れに大いに賛成しています。将来は僕が教える科目なので今後もその動向をしっかり確認しておきます!

 

今日はこのあともう一本。

読書語り#6 『学校が学習塾にのみこまれる日』

今回の本は2006年に出版されてるので今から15年前くらいの話です。

 

この辺から塾産業がかなり盛んにおこなわれてたようで、学校の勉強についていけない生徒を救う場所から、優秀な人のために勉強を教える機関というイメージが定着し始めたころだそうです。

 

学校と塾の違いってなんだろって考えると

学校:基礎基本を教える場所⇔塾:入試に勝てる勉強を教える場所

   生徒の個人個人の生き方を尊重⇔とりあえず目標は受験合格

 

って感じなんですかね(あくまで個人の考え方ですが)

 

 学校は、生徒が「自分で考え行動する力」を身に着ける場所だって考えます。塾はあくまで勉強の解き方を教える場所です。でもこれだけが「学力」ってことではないんじゃないかなって思います。確かに学力が高い人は要領がよいことが多いです。仕事もできる人が多いと思います。しかしそういう人は微分積分がめちゃくちゃできるとか、物理の問題がめちゃくちゃ得意だとか、日本史や世界史をよく理解しているから、仕事ができるわけないじゃないですか。

 そういう人は試験で使える学力を身に着けたと同時に、生きるための「学力」を身に着けたんだと思います。生きるための学力ってなんじゃそれって感じなので僕なりにまとめると

➀論理的思考力

(筋道立てて物事を考える力、主に現代文や数学によって獲得)

➁表現力

(語彙力も含め、相手に伝えるときに用いられる力、主に現代文や社会や理科の論述問題によってみられる力、数学の証明

現代社会の仕組み、国際問題のルーツと現状、文化の根差す場所など、過去を今に活かすという考えのもとで使われる知恵、主に歴史や地理などの社会科の科目、古文や理科によって獲得)

 

こんな感じかなって思います。要するに学修する学問の裏にある本質的な部分です。自頭がいい人って勉強する段階でこういう風なことに気づいていき、実際の入試問題を見た際に問われてる力をあらかた理解できてるんですよね。僕は大学入ってから気づきましたけどね。

 

こういうのを教えるのが、学校の役目だと僕は思いますね。「こんな勉強何の役に立つの?」っていうのは至極真っ当な意見なんです。でも大人は「学歴は人生の役に立つ」と少し論点をずらして答えるんですよね。学歴は役に立ちますけど、上記の力を獲得しているか否かで生きやすさは格段に変わると思います。学校は基礎基本を教える傍らでこういうことを教えられると素敵ですよね。

 

自分もまだまだ表現力が足りないので、しっかり本を読んで知識を蓄えて、表現力高めていきます。そして将来は授業でこういう力について話せたらいいなって思います。

 

それでは、また明日!!

読書語り#5 『半径5メートルからの教育社会学』

教育社会学っていうのは教養の授業でやったのですが、改めて教育社会学の教科書のようなこの本を読みました。

 

学力の獲得は平等なのかっていうテーマは、個人的にすごく興味がありましたね。

「頑張ればできる」っていう言葉がありますが、実際塾に行っていたり、ある程度裕福な環境の方が学力は獲得しやすいっていうのがデータとして出てるんです。もちろん学校が悪いっていうわけではないんですが、やっぱりより多くの学習システムを持っていて、それを用いて様々な角度から勉強できるっていうのは学力獲得の格差を生み出しうるんだなって思います。

 

あとはジェンダーと学部選びについても載ってました。これは神戸大学の2021年の入試にめちゃくちゃ同じようなことを論じた英文が出たんですよね。要するに理系に女子が進みにくいのなんでだろうっていう感じの問題でした。理系は男性が多いし、女性の中には嫌いな人も多いですし、なにせ理系に進学して学校の先生やってる人って男性がやっぱり多いんですよね。そういうものを大学を決める時期にたくさん見ている女子にとっては理系っていうのはハードルが高く見えるんでしょうね。

 

あとはいじめの話も載ってました。いじめが学校とかで起きた時になぜ教師は早期発見が難しいんだろうって考えてましたが、実際は「いじめ」と「いじり」の境界線がめちゃくちゃ曖昧なのが原因のようです。「いじり」はいじられる側がある程度許容してるんですけど、エスカレートすると虐めっぽくなっちゃうんですよね。ただ、いじられキャラが板についてしまうと、結局やめてと言えなくなって大問題になっちゃうんですよね。教師は第三者視点でしか判断できないので、なかなか早期大書が難しくなるみたいです。

 

結構考えるテーマが多いのでこの本は面白かったですよ。

 

それでは、また明日!!