まだ名もないキモチ

文学部の大学生が書いていくブログです。興味あることや大学での勉強のこと、将来に向けて等内容は様々です。神戸大学生に向けての記事も書く予定です。

読書語り#8 『高校の現実 生徒指導の現場から』

今日は2冊続いて高校に関する本を読みました。

この本は学校が抱えている問題と言いますか、悩みと言いますか、そういったものを高校の生徒指導をしている先生が書いたものです。

つまりめちゃくちゃ簡単にこの本のテーマを説明すると、学校という場が社会とどのようにかかわっているのかをリアルに語った本ってことです。

 

特に印象的だった、「生徒に合わせねばならない教育」と「いじめをどう解決するか、ゼロ・トレランスとの兼ね合い」についてお話しします。

 

 まず「生徒に合わせねばならない教育」に関してです。これは生徒のレベルに合わせてきちんと授業をしましょうねみたいなそんな優しい話ではないんです。学校の先生の目的って授業をすることなんですよ。何を当たり前なことをと思うかもしれませんが、よく考えてみてください。「授業」って何でしょう?生徒がちゃんと先生の話を聞いて学習することなんです。つまり「生徒が聞いてくれる」っていう条件がそこに入るんですよね。先生が黒板の前で話すことが授業ではなく、その話が聞き手に届いて初めて授業たりうるんです。つまり先生は生徒が話をちゃんと聞いてくれる環境を作らなきゃいけない。だから「生徒に合わせねばならない教育」なんですよね。ただこの本のすごいところ肌から教師って無力なんですよって言わないんです。

 この本に載っていた例です。女子高生の制服のブレザーが盗まれました。学校中を懸命に探し回りましたが見つかりません。女子生徒の親は、ブレザーは盗まれたのだから校則でブレザーの着用義務があろうとも、娘はブレザーを着なければならないということにはならない、と主張しました。そこで学校の先生はこう言ったんです。「ならば学校ではなく、警察に盗難届を出してください。学校は懸命に探しました。警察の動きを加味して、もう一度改めて娘さんにブレザーの着用に関してお願いします」と。

 これは外部の力を利用しているんです。確かに学校の中では学校の先生は生徒にある程度合わせないといけません。そうしなければ更なる問題が引き起こされ、事態は悪化するだけです。しかし社会のルールを用いれば、社会的な判断がそこでの政界になるので、結果として教師は生徒やその親に無理に合わせる必要がなくなります。案外学校の問題は外とのつながりも重要なのだと気づかされましたね。

 

そして「いじめをどう解決するか、ゼロ・トレランスとの兼ね合い」っていうテーマです。ゼロ・トレランスは「無寛容」的な意味で、要するに寛容さなしで、ルールを基に判断するという意味です。よくいじめが学校で起きた際に、学校の対応が悪いということをいう人がいます。しかしながらいじめの対応はめちゃくちゃ難しいそうです。

これには2つの理由があります。一つ目に「被害者は絶対に正しいという考えが社会にある」ということです。基本的にやられた側、つまり被害者はとがめられることがないです。それに対して加害者が悪いのではないかという意見が大半でしょう。しかしそういった前提で解決に導くと、加害者側に関係する人、例えば加害者の親が出てきたりすることで事態はさらに面倒なことになります。いじめなどで被害者と加害者がどういう関係にあるのかが判然としないほど、事態の収束は困難です。

そして二つ目に「いじめの証言集めが難しい」ということです。いじめに関して第三者の視点から情報を集めるとき、意外とうまくまとまらないそうです。なぜならいじめというのは被害者と加害者の関係が色々と入れ替わり、様々な要因が集まって今の状態になっているからです。互いに言い分があり、いじめられただの、これはいじめに入らないだの様々な考えが飛び交うのでそれを一つのストーリーにするのが難しい。

 

そしてよく寛容さゼロ(ゼロ・トレランス)で加害者を罰すればいいだけだと言われるが、加害者にも加害者の言い分があるため、そういう対応はかえって事態を泥沼化させることもあるのだそうです。いじめの解決は難しいですね。何冊も本を読みましたが、以前よりもさらに複雑化しているので難しいところです。

 

高校のリアルな問題を知ることができて勉強になりました。人と人がかかわりあって、人として成長していく場である学校での問題についてはまだまだ勉強しておこうと思います。

 

それでは、また明日!!